遠山原高速線計画

概要

「遠山原高速線計画」は、1960年代から1980年代にかけて計画、建設が進められていた高速線計画である。

多くの高速線計画が進行する中、騒音問題などが原因の沿線住民反発、さらに富街空港を経由するルートとされたことにより、富街空港反対派からも反発された。そのような経緯から、1988年に計画は中止。一部の区間は実際に工事が進められていたが、途中で工事中止となった。

計画段階でも様々なルート案があり、「古林経由案」「津喜駅経由案」などが計画された。最終的に下の地図に記入しているように、富街空港や木滝神宮を経由するルートとなった。このルートに対する反発もあった。

地図

赤い太線が遠山原高速線計画案

・永京から津喜市海浜エリアまでは永神高速線と並行して走る予定だった(複々線)。

・古林を経由するルートも計画されたが、騒音問題があったことから反発の声が多く、結局通らないことになった。

・津喜市エリアでは並行在来線が計画され、「津喜急行電鉄」として実現した。

・当初は富街空港方面を支線とし、本線は奈原を経由する計画だった。実際に建設や用地買収がされたものの、この区間は富街空港方面を本線とすることが決まり、在来線用に転用された(両武急行線)。

・富街空港付近の土地や途中で放置された設備は、在来線用に転用されている。

・木滝神宮~豊矢市南部エリアまでは両得電鉄と並行するルートが予定されていた。この区間は後に両得電鉄得原本線改良工事の際に一部活用されている。

・遠山原県では高速線計画の重要性を知りつつも、騒音問題やルート問題などの解決をNNR(国有鉄道)に求めていた。しかし、NNRとルートや騒音問題で合意できなかった。そこで、両得電鉄得原本線のスピードアップ化に補助金を出し、その結果得原本線や古林線は改良工事が進められた。

・1980年代に入ると、計画が実現する見通しが立っていないことを理由に、津喜県や永京都なども両得電鉄を活用して高速線の代替線とする案を支持した。そのため、古林線の設備改良、特に複々線や遠山原新線計画がすすめられた。

・1988年に計画が正式に中止された。これは両得電鉄線の設備改良が進行していたからである。両得電鉄の特急は混雑が激しかったが、遠山原新線開通や一部の複々線化、さらにスピードアップや増発により混雑は緩和傾向にあるという。


※当ページの内容はフィクションです。

当ページ最終更新日 2018年01月06日

当ページ公開開始日 2018年01月06日