京得電気軌道

歴史

東を目指した路面電車

 京得電気軌道(きょうとくでんききどう)は、結急電鉄津喜エリアの一部の前身、両得電鉄の更に前身となる鉄道です。この京得電気軌道は「永京」の「京」と、下得(津喜県北部の旧国名)の「得」から名付けられた路面電車で、当初から津喜県方面を目指していました。最初の路線として計画されたのが、永京都内で古くから賑わっている深芝(ふかしば)地区に近い「業平駅(なりひらえき)」から、津喜市中心部方面へ向かう路線です。1901年に最初の開業区間である川井駅-船瀬駅(現在の船瀬本町駅)間、1902年に業平駅-川井駅が開業した後、1905年、業平駅から津喜駅(現在の津喜中央駅)までの区間が開業しました。当時は1両の電車が20分間隔で走るというダイヤで、これは並行する省線両武本線が当時1時間に1本程度あれば良い方というダイヤだったので、非常に利便性が高いものだったといえます。1908年には車両を増やし、昼間は15分間隔で電車が走るようになりました。翌年の1909年には急行が新たに設定され、両武本線の強力なライバル路線として利用客がどんどん増えていきました。

 線路の幅は1064mmです。当初は永京都内の路面電車と同じ1372mmで線路が敷設される予定でしたが、建設費の削減と将来的に省線へ貨物列車を直通させることを想定して1064mmとなりました。

1901年 川井~船瀬(現在の船瀬本町駅)間 開業

1902年 業平~川井間 開業

1905年 船瀬~津喜(現津喜中央)間 開業

路面電車、家を建てる

 京得電気軌道は不動産開発を得意としていた。創業メンバーにはデベロッパーになることを目指していた人がおり、その人が京得電気軌道不動産部を設立。1906年以降路線建設がひと段落して資金が余っていたので、少しずつ不動産開発に重きを置くようになった。

 不動産開発に重きを置くようになった理由はそれだけではない。永京~津喜の利用に加え、途中駅から永京・津喜への旅客流動を創出したり、沿線に施設を建設した際すぐ黒字にできるようにしたりする目的もあった。実際、施設として遊園地と劇場が建設されている。

 このような事情により、京得が次に路線を伸ばしたのは津喜延伸から10年後の1915年となった。

年表2

1910年 船瀬に「京得船瀬遊園(後の幕沼遊園)」が開園

1914年 「津喜劇場」が完成

Go East

 不動産開発がひと段落した1915年。10年ぶりに京得電気軌道の線路が伸びることとなった。目指したのは当時のどかな街だった富街である。富街は街の規模としてそれほど大きくなかったが、あくまでも富街延伸は第一歩であり、最終目的地は奈原だった。

 1917年にはいよいよ最終目的地の奈原へと路線が伸びた。奈原はかつて幕府が置かれていた街で、四方を山や丘に囲まれている。街の中心は古い建物が多く、古都として知られているのだが、それゆえに「景観を乱す」だとか「騒音になる」だとかと難癖をつけられて延伸反対運動が起こってしまった。

年表3

1915年 津喜(現津喜中央)~富街間 開業

1917年 富街~奈原間 開業

古林線関係がひと段落した後

 京得電気軌道は奈原延伸後、古林線の建設や開発を進めていた。そのため、両得本線(当時「本線」)の開発ペースはゆっくりとなった。

 そんな両得本線が久しぶりに延伸することとなったのは、1928年の事である。都心部への延伸を目的に、地上区間と全く同じ規格で建設された「地下鉄」として、上谷~業平間が開業した。途中には深芝駅が設けられているが、これは当時深芝を目指していたほかの鉄道の延伸を阻止する目的もあった。

 上谷~業平間のうち、実際に地下区間なのは上谷~深芝間だけである。さすがに、当時の技術で深芝~業平間にある川の下を通すのは困難だったようだ。

 安全性の都合で、開業からしばらくの間は車体すべてが鋼鉄で作られた500形が上谷~業平間を往復していたが、500形の増備が行われると、上谷~奈原間の列車も運行されるようになっている。

年表4

1928年 上谷~業平間(地下鉄区間) 開業

1928年 鋼鉄製電車500形デビュー

古林線

 仁戸時代の物流は、水運が中心だった。徒名川に面している古林では、古くから水運が栄え、多くの商人が財を成していた。しかし鉄道による物流が各地で主流となり、次第に水運は衰退。古林の商人たちは時代の変化に対応するため、鳴田鉄道を誘致した。しかし、鳴田鉄道は少し遠回りして永京に向かうため、新たなルートとして京得電気軌道古林線を計画。京得電気軌道に資金提供し、古林線を建設させたのである。

 古林線の開業と同時に京得電気軌道は貨物輸送を開始したが、京得電気軌道は法律上「路面電車」という扱いであり、珍しく路面電車が貨物輸送を行うことになった。古林の商人たちの船は、陸上に上がって「電車」に進化したのである。

 1922年に東兵庫~鎌原大仏、翌年には鎌原大仏~古林間が開通。その後、1927年には徒名川を渡り辰巳ヶ崎まで延伸した。

※京得電気軌道は、現在の両得電鉄の前身となる鉄道である。

京得、まちづくりに挑戦

 古林線の沿線は地盤が良い。これは「下得台地」を走っているからであり、また自然が近いこともあって、1925年に不動産会社と統合した京得電気軌道は沿線を高級住宅地として開発することにした。

 古林線沿線の開発では、英国のエベネザー・ハワードが提唱した「Garden City」の考えを取り入れた。この考え方は両得不動産によると「都市の経済的な利点と、農村の生活環境を結合した理想的な都市形態」だという。早速旭町駅周辺がこの考え方に基づいて開発されることとなった。

 旭町駅周辺の開発では、まず京得電気軌道が周辺の土地を買い取り、住宅を建設。それを賃貸し賃貸収入により街の維持や建設費の償還を行う。この手法は後にほかの駅周辺開発でも行われ、両得電鉄や両得不動産となった現在の両得グループが得意としている手法だ。

 また、「若者がいなければ街は成立しない」という京得電気軌道の方針により、鎌原大仏駅には高校や大学が誘致された。この手法も他の路線沿線の開発でも行われ、両得グループが得意としている手法である。

遠山原線(旧古林線)の今

 古林線は両得電鉄でも12を争う人気路線である。それは京得電気軌道時代から行われてきた不動産開発、学校誘致や細やかなサービスが維持されてきたからであろう。また、比較的混雑率が低いことも支持されている理由の一つだ。華やかなイメージがある両得本線に比べると多少「地味」な感じは否めないが、言い方を変えれば閑静で落ち着いた沿線という表現もできる。

 しかし、両得電鉄はこの現状に満足せず、さらに住みやすく心地よいまちづくりを進めている。その取り組みが素晴らしいものであるかどうかは、10年後、100年後に成果として現れるのであろう。

 ほかの路線で新型車両導入や増車が行われる中、目立った話題がない古林線だが、それは派手なことをしなくても十分ほかの路線に対抗できる魅力があるからなのかもしれない。


※当ページの内容はフィクションです。

当ページ最終更新日 2022年01月03日

当ページ公開開始日 2017年09月28日