結急と合併統合

2010年 来戸急行電鉄

 2000年代前半まで比較的安定的な経営を行っていた来戸急行電鉄だったが、2003年の証券取引法違反事件、また利益供与事件などで混乱が生じ、上場が廃止されてしまった。この際、来戸急行建設が保有していた来戸急行電鉄株が両得電鉄に売却される。もともと両得電鉄は来戸急行電鉄の株を保有していたが、このことがきっかけでグループ再編に両得電鉄がかかわることとなった。仙豊鉄道→仙豊事業部を立て直した手腕も評価されたのである。

 再編計画は2005年から2006年にかけて行われ、この際に来戸急行電鉄は両得電鉄の子会社となった。この時点では両得電鉄との合併が予定されていなかったが、このころから国と津喜県が鉄道再編に力を入れ始めた。これは当時の津喜県知事などがある国の首都を視察した際、バスや鉄道が再編され共通運賃で乗車できる制度があることを知り、それを日本でも導入しようとしたからである。

 来戸急行電鉄との合併は両得電鉄の本意ではなかったものの、津喜県の主導により進められ、2010年に行われた。途中で津喜県知事が変わったが、この計画に関しては大部分が進行していたこともあり、中止されずに行われたのである。

津喜県知事はなぜ鉄道再編を進めようとしたか

2006年当時の津喜県知事が進めようとしていた鉄道網再編。これは鉄道やバス会社を一つにまとめることにより、共通運賃、制度での乗車を可能とするものである。ちなみに、県知事が視察した国の首都においては、異なる事業者間でも共通の運賃制度で乗車できるようになっているが、国内でそれをそのまま導入するのは難しいと判断したようだ。

2002年 仙豊鉄道

 2002年、仙豊鉄道は両得電鉄と統合し、「両得電鉄仙豊支社」として再出発しました。仙豊支社の愛称だった「仙豊電車」は、ブランド名として残されましたが、「仙豊鉄道」という名称は消滅してしまいました。

 そもそも仙豊鉄道は、仙豊県内を代表する大手鉄道。1996年までは野球チームも保有しており、全国的にも名前が知られていました。そんな仙豊鉄道が、同じく大手鉄道である両得電鉄に統合されるというニュースは、地元民だけでなく、全国的にも大きなニュースとなりました。

 しかし、なぜ仙豊鉄道は両得電鉄と統合したのでしょうか。それには、バブル期に身の丈を超えた開発を行い、バブル崩壊後にそれらが大きな負担となったことが関係しています。また、高コスト体質が続いたり、経費削減が組合の反発によりうまく行かなかったりということも、大きな理由の一つです。

 1973年のオイルショックは、仙豊鉄道にも大きな影響を与えました。燃料価格の高騰により、自家用車で通勤していた人が電車を利用するようになり、利用客が増加。それに伴い車両更新計画や駅の改修計画などを前倒しして行うことになりました。

 1978年頃になると駅の改修計画がある程度ひと段落し、その余裕を生かして沿線の不動産開発を進め始めます。その代表例が各主要駅に建設された駅ビル。八田山都市圏だけでなく、見旗や主坂などの主要都市、さらに作登や仙豊山口などと言ったローカル線区間の主要駅にも駅ビルが建設され、その中に入居していた「仙豊ストア」は仙豊県民に欠かせない存在でした。

 また、仲山や和泉沢の温泉リゾート開発、高初線沿線の戸巻や高良、初浦などの海水浴場開発、仙豊本線権文周辺への大規模遊園地開発…… などなど、多数の不動産開発を実施。ちょうどバブル経済が始まったころに行われ、バブル期の仙豊鉄道はすさまじい勢いで不動産開発を行っていたのです。

 バブル経済が終わると、数多くの不動産施設を建設する際に借りた借金が大きな重荷となっていきます。また施設そのものの利用客も減少し、赤字に苦しむ施設も数多く存在しました。その赤字は本業の鉄道にも大きな影響を与えていたことから、仙豊鉄道では大規模な経費削減を行うことになったのです。

 まず手が付けられたのは、赤字だった施設の売却や閉鎖。その後、黒字だった設備も売却され、さらに仙豊鉄道の看板を背負っていた野球チームすら売却されてしまいました。

 怒涛の勢いで行われる経費削減に、仙豊鉄道の組合は猛反発。ある程度不動産売却が完了したら、社員数削減や給料の減給も行われる予定だったようですが、これを社員が許すわけがありませんでした……

 1998年、1999年はストライキが多発し、利用客が少ない区間だけでなく、稼ぎ頭の八田山都市圏区間にも影響が出ました。ちょうどNTR今北の仙豊支社が増発を行ったり、道路事情が徐々に改善されてきたこともあり、利用客は減少。ついに自力で経営改善をするのが厳しい状況に追い込まれてしまったのです。

 そこに救いの手を差し伸べたのが両得電鉄。その両得電鉄も初めから仙豊鉄道との統合を行う予定ではなく、「経営再建のお手伝いをするだけ」というスタンスだったようです。それもそのはず、仙豊鉄道の財務状況は悪く、統合をしてしまったら両得電鉄にも影響が出てしまうからでした。

 2000年、仙豊鉄道は3年間の経営改善計画を発表。とはいえ、売れる設備は売ってしまったし、社員数削減もうまく行きそうにない…… せめてできることをということで、列車の長さを短くしてみたり、多少減便をしてみたりしましたが、混雑が悪化し乗客からは不評でした。

 翌2001年。両得電鉄は仙豊鉄道を統合し、効率的な運行ができるようにすると発表しました。仙豊鉄道は両得電鉄との相互直通運転を盛んに行っていたことから、統合効果は大きいと判断された一方、仙豊県を代表する鉄道が両得電鉄の一部になることに対する反発も大きいものでした。

 しかし、言い換えれば自力での統合が難しい以上、両得電鉄など他の鉄道の力を借りなければ、ローカル線どころか八田山都市圏の路線すら維持できなくなるということでした。

 2002年に仙豊鉄道は「両得電鉄仙豊支社」として再出発しました。沿線住民などに配慮し、ブランド名として「仙豊電車」という名称は残され、現在(2018年)もアナウンスや案内などで用いられています。

 2003年には新型車両10系4000番台が登場。システムの一部を両得電鉄津喜支社に導入された10系0番台と共通化していますが、片側3ドアの車体は引き継がれたほか、インテリア、エクステリアデザインもオリジナルのものとされました。

 2009年にはSR1系がデビュー。特急列車の一部を通常の乗車券だけで利用できるようにしたことで、より気軽に特急列車を利用できるようになりました。

 現在では両得電鉄津喜支社などの車両も多く転入し、新型車両とあわせて旧型車両の置き換えが進みました。かつて減便された路線は増発により元の水準あるいはそれ以上の水準になったり、短くなった編成長さも概ね元通りの長さに戻され、1990年代初頭のサービスレベルに戻っています。

 両得電鉄になっても「仙豊電車」という愛称や、独自設計の車両が消えることなく、そして新たに設計されています。それは仙豊鉄道が築き上げてきたブランドが、仙豊県民やほかの地方の人々にも残っていたからだと思うのです。

1966年 得原鉄道

 1966年に旧得原鉄道は両得電鉄と対等合併した。この対等合併は、ある鉄道の影響により行われたとされる。それは旧来戸急行電鉄だ。来戸急行電鉄は1950年代頃から不動産開発を積極的に行っていた。その勢いは他の鉄道会社に比較しても凄く、得原鉄道が営業エリアとする遠山原地区にも進出していた。得原鉄道も不動産開発を行っていたが、こちらはエリア拡大よりも遠山原エリア内で手堅く施設を建設していくというスタイルだった。

 1960年代になると、来戸急行電鉄と得原鉄道の不動産開発争いが激戦になる。得原鉄道の予算ではとても来戸急行電鉄に太刀打ちできない。そこで、不動産開発が得意ながら遠山原地区にあまり進出していなかった両得電鉄の協力を得ることになった。

両得電鉄と得原鉄道は当時すでに相互直通運転を行っており、友好的な関係を築いていた。両得電鉄は得原鉄道沿線に施設を建設し、得原鉄道は逆に長距離の乗車に向いている車両を両得に貸し出した。車両の貸し出しは海水浴客が多い夏季によく行われ、普段得原鉄道の車両が乗り入れることがない両得本線奈原、北萩線北萩などにも入線していたという。事件が起きたのは1965年。当時の来戸急行電鉄が得原鉄道の買収に乗り出したのだ。来戸急行電鉄は営業エリアの拡大を積極的に行っており、ライバルの両得に先駆けて遠山原の地を手に入れようとしたのだ。

 この動きを察知して、両得電鉄も対抗手段に出た。まずは来戸急行電鉄が建設していた施設のすぐ近くに似たような施設を建設した。また、来戸急行電鉄沿線へ向かう観光バスを多数運行した。

 これら両社の動きは「遠山原戦争」として知られている。この遠山原戦争は、ほかのどの地域の開発競争より過激なものだった。そして、両得電鉄と得原鉄道は「このままでは共倒れする」という危機感を抱き、遠山原戦争に決着をつけるために対等合併を行うことにした。対等合併を行えば、両得電鉄と得原鉄道が一体化することにより競争力が高まる。そして、来戸急行電鉄が遠山原地区から撤退すると考えたのだ。

  このような経緯から、両得電鉄の中でも遠山原エリアは独自の車両やサービスが提供されている。とはいえ、近年は両得電鉄本部とあまり変わらないサービスや車両に変わりつつあり、かつて別の鉄道により運行されていた時代の香りは消えつつある。ちなみに、得原鉄道との対等合併時、「すべての路線を30年間維持すること」という条件もあった。この条件は守られ、現在もほとんどの路線が両得電鉄の路線として残っている。


※当ページの内容はフィクションです。

当ページ最終更新日 2021年10月17日

当ページ公開開始日 2018年05月07日