奉旗県のまち

奉旗市

 奉旗市(ほうはたし)は、奉旗県の県庁所在地であり、人口約98万人の政令指定都市でもあります。市の中心部は、永神高速線も止まる奉旗駅(ほうはたえき)周辺です。内陸の岩倉山(いわくらさん)や美馬岳(みまだけ)などから流れてくる川の水と、四方を山と海に囲まれた防衛のしやすさから、古くから城下町として栄えてきました。

 戦国時代には鶴市義昭(つるいちよしあき)が周辺を治めていました。鶴市氏は関ヶ原の戦いにおいて東軍側につき、江戸時代に入ってからも外様大名として「奉旗藩」を治め続けていました。山に近い鶴市(つるいち)から尾城(おじろ)にかけての地域では稲作が、城下町である現在の奉旗駅近くでは染物・織物が盛んだったようです。


 明治期に入ると、鳥豊地方北部の中で最も大きな町であることから軍港が設置されました。しかし、程なくして隣の按針市(あんじんし)に移転してしまい、発展のチャンスを逃してしまいます。一方で現在はモノレールの終点となっている山出(やまで)地区には製糸場が設けられ、工業が発展していきました。また、鳥豊重工業が中谷(なかたに)地区に鉄道車両製造工場(後に移転)たり、国産自動車創世記の頃に鳥豊自動車の工場が建設されたりと、戦後の発展に繋がった工場郡が増えていきました。

 第二次世界大戦前は按針に人口を抜かれていましたが、1950年代以降は奉旗の方が発展していき、1960年には按針市の人口を再び追い抜きました。1960年代は鳥豊重工業奉旗製作所、茨原製作所奉旗工場、鳥豊自動車山出工場、関沢工場、そして富津(ふっつ)には奉旗火力発電所が相次いで建設・増築され、比例して人口も急増しました。1960年時点で25万人ほどだった人口が、1975年頃には約65万人に、2003年にはついに90万人を越えました。

 人口が特に増加したのは、沿線に工場の多い勝亀鉄道(現在の結急電鉄)や奉鴨急行電鉄(現在の結急電鉄)の沿線でした。私鉄である両鉄道は、お互いに宅地開発を進め、時には互いに互いのテリトリーを開発して激しく競争していました。1960年代から1980年代後半にかけての両鉄道の対立は「奉旗戦争」とも呼ばれました。

 一方でNR線沿線はさほど開発が進みませんでした。1970年代時点、まだNR線は民営化されておらず運行本数が少なかったこと、また勝亀鉄道、奉鴨急行電鉄ともに自社沿線の開発を優先したことが要因とされています。しかし1980年代中頃から運行本数を増やす取り組み(奉鴨シティ電車)が行われたり、民営化を機にNR自身で沿線の開発を行うようになると、駅前にマンションが建設されるようになりました。90年代においてはむしろNR沿線のほうが開発されており、石毛(いしげ)から内陸の坂元(さかもと)までの「坂元ニュータウン」や、横砂(よこすな)、高速道路のICにも近い寺沢(てらさわ)地区の人口が増加していきました。

 2000年代に入ると、隣の按針市では工場の生産規模縮小の影響をうけ人口が減っていきました。一方で、自動車の生産が順調だった奉旗は「自動車産業のまち」としての訴求力が高まり、引き続き人口が増加していきました。この地を拠点とする鳥豊自動車では、2000年代中頃から茨原製作所などと連携し、電気自動車の開発を加速させていきました。市としても電気自動車開発を後押しするため、市内を走る路線バスの一部をEV化するなどの施策を進め、「環境先進都市」をアピールしています。


※当ページの内容はフィクションです※

当ページ最終更新日 2023年06月10日

当ページ公開開始日 2023年06月10日