両得電鉄20系(初代)

概要

 両得電鉄20系は、1963年に登場した通勤型車両です。

 高度成長期の日本と両得電鉄は、ラッシュ時の混雑に悩まされていました。電車を増やすにも、1960年代前半の時点ではまだ複々線区間が無く、また変電所など線路以外の設備の都合もあり、すぐに本数を増やすのが難しい状況でした。また、1967年より浦原線(現在の津喜線日向道場駅-高谷駅間)と地下鉄広鐘線(ひろかねせん。現在の永京地下鉄津喜線)が相互直通運転を開始することとなり、そのための車両も必要な状況でした。

 地下鉄直通の際の条件として、「車両の長さは連結器の端から端までが20mであること」「ドアは片側に4箇所あること」「加速度を3.5km/h/s程度とすること」があり、これらをすべて満たし既存車両(18m)よりも長い通勤型車両として、この20系が導入されました。

 また、この派生形式として、高価な電動車の比率を減らし経済的な設計とした「50系(1965年登場)」や、ドアを片側2箇所に減らしてボックスシートを採用した「30系」もあり、そちらもこのページで解説します。

20系

1976年と1977年に導入された車両は、台車の製造メーカーの都合により、台車が新しい設計のものに変更されました。

 地下鉄広鐘線直通を目的として導入された車両です。1963年から1967年までに当時の幕沼車両基地(当時の津喜県幕沼市)に集中導入され、計画通り地下鉄直通運用専用車として運行されました。デビューした当時としては意欲的な設計となっており、空気バネ台車(当時の通勤型車両は金属バネ台車がまだ多かった)や、超多段抵抗制御の採用により、他社の通勤型車両よりも滑らかで乗り心地のよい車両となりました。最高速度は100km/h。加速度は3.5km/h/sとなっています。

 編成は4両編成を基本としています。1つの制御器で6つのモーターを制御する方式を採用しており、2両で1ユニットという扱いでした。1967年の地下鉄直通開始時点では、一部の運用を除いて2編成を連結した8両編成で運行されていましたが、1970年からは4両編成に2両を追加で連結した6両編成(Mc-M-M-Mc-M-Mc)の運行も開始されました。

 それでも混雑に対応できなくなってきたことから、1971年には増結用中間車(付随車)が導入され、貫通6両編成(Mc-M-T-T-M-Mc)が登場しています。この頃は、ラッシュ時の再混雑運用に6両編成と4両編成を連結した10両編成を投入し、日中は6両編成で運用していたようです。また、1971年度導入車から冷房を搭載するようになり、搭載していなかった車両も1981年までに冷房を搭載しました。

 仙豊鉄道(当時)に乗り入れ、仙豊県の見旗駅や八田山駅まで顔を出していた時期もありましたが、後継車両の導入が進んだことから、2008年に引退しています。

50系

 20系の車体と30系の制御装置を組み合わせ、1965年に登場した通勤型車両です。電動車の比率が1:1となり、経済的な車両となりました。20系が浦原線と両得本線の運用に投入されたのに対し、こちらは古林線(現在の遠山原線上谷駅-古林駅間)に投入されました。6両編成と4両編成があり、2編成を連結して8両編成や10両編成で運用されることもよくありました。また、それまで旧型車両ばかりが走っていた津古線や樫葉・衣昇線系統にも導入され、長い間両得電鉄の主力として活躍していました。最高速度100km/h、加速度2.5km/h/sです。

 2013年に引退しました。

 1976年、1977年度に導入された車両は、20系同様に台車が変更されました。

転用

 80系などの導入により、20系、50系ともに他の路線に転用されました。両得電鉄線内では、20系が北萩線(現在の八田山線系統)に、50系が衣昇線(2022年3月以降は「わかば線」)や津古線に転用されています。また、遠山原エリアに転用された車両もあり、主にラッシュ時に運用に入っていたようです。

 他社に譲渡された車両もあり、直通運転先でもあった津久茂電鉄(津喜県)、北九州急行電鉄(福岡県)に譲渡されました。北九州急行電鉄に譲渡された車両は、混雑対策のための「つなぎ」として譲渡されたこともありすでに引退していますが、津久茂電鉄には少数がまだ残っています。


※当ページの内容はフィクションです。

当ページ最終更新日 2022年05月08日